AI時代、子どもを「いい学校」に入れるだけで十分なのか|受験・学歴と「好き」を突き詰める力

AI時代の子育てと中学受験・高学歴・好きなことを突き詰める力を考えるイメージ 学び・仕事

子育てをしていると、ときどき「いい学校とは何だろう」と考える。

私には二人の子どもがいる。

一人は受験という世界で結果を出してきた。もう一人は学校という仕組みにうまくなじめず、不登校を経験した。

まったく違う道を歩く二人を見ていると、「頭がいい」「将来有望だ」「安心できる」といった言葉が、以前ほど単純には思えなくなった。

もちろん、受験で結果を出すことは素晴らしい。

難関校には、努力することが当たり前になっている人、難しいことを考えることを面白がる人、自分よりはるかに得意なものを持っている人が集まりやすい。

そういう環境に身を置く価値は大きいと思う。

一方で、学校という決められた枠から外れた場所で、自分の好きなことを誰に言われるでもなく、とことん掘り続ける人もいる。

そして生成AIが急速に社会へ入り始めた今、私は考えるようになった。

これからの時代、本当に強いのは「いい学校に入った人」なのか。
それとも、「自分の好きなものを見つけ、それを自分で深めていける人」なのか。

たぶん、答えはどちらか一方ではない。

受験で培われる力も必要だ。

好きなことを突き詰める力も必要だ。

では、AIが当たり前になる時代に、親は子どもに何を身につけさせればいいのだろう。

この記事では、受験や高学歴の価値をきちんと認めたうえで、その先に必要になる力について考えてみたい。

まず、受験で結果を出すことは素晴らしい

最初にはっきり書いておきたい。

私は、受験や高学歴を否定したいわけではない。

むしろ、難関校を目指して何年も勉強し、実際に結果を出すことは素直にすごいと思っている。

受験は、頭の良さだけでは乗り越えられない。

毎日勉強を続ける。
苦手な科目にも向き合う。
模試で思うような結果が出なくても修正する。
遊びたい日にも机に向かう。
そして本番では、緊張の中で限られた時間内に力を出し切る。

そこには、読解力や計算力だけではなく、集中力、継続力、自己管理能力、目標から逆算する力、失敗から立て直す力が必要になる。

これは、社会に出てからも使える大きな力だと思う。

そして、いい学校の価値は、授業の内容や大学進学実績だけではない。

誰と学ぶか。

これも非常に大きい。

難しいことを考えるのが好きな人がいる。
努力することを特別だと思っていない人がいる。
自分より圧倒的に得意なものを持った人がいる。

そういう人たちに囲まれていると、「自分ももう少しやってみよう」と思えることがある。

人は、想像以上に環境から影響を受ける。

親に「勉強しなさい」と言われなくても、周囲が当たり前のように努力している。その環境自体に、大きな価値がある。

難関校や難関大学に進むことで、将来の選択肢が増えたり、優秀な人とのネットワークができたりすることもある。

OECDの『Education at a Glance 2025』を見ると、日本の25~34歳で高等教育を修了している人の割合は66%で、OECD平均の48%を大きく上回っている。日本では今も、それだけ多くの人が大学などの高等教育に価値を見いだしているということだ。

また、OECD全体では、高等教育を修了した人は高校卒業程度の人より平均所得が高く、フルタイム・通年就業者ではその所得プレミアムは平均54%とされている。さらにOECDは、大学などには専門知識だけでなく、同級生や研究者、産業界とのネットワークを得る機会があることも指摘している。

もちろん、これは「大学へ行けば必ず成功する」という意味ではない。

それでも、

学歴には今も現実的な価値がある。

だからこそ、私は受験や高学歴を簡単に否定したくない。

だから私は、

「AI時代だから受験は意味がない」

とはまったく思わない。

勉強できるなら、とことん勉強すればいい。

難関校を目指したいなら、本気で目指せばいい。

努力して手にした学歴は、その人が積み重ねてきたものの一つの証明でもある。

ただ、ここで一つ疑問が残る。

その力だけで、これからの社会を生きていくには十分なのだろうか。

AIが変えるのは、勉強の価値ではなく「勉強した先」なのかもしれない

ChatGPTをはじめとする生成AIを使っていると、知的労働の意味が大きく変わり始めていると感じる。

文章を書く。
翻訳する。
情報を整理する。
計算する。
プログラムを書く。
企画のたたき台を作る。

少し前までなら、一定の知識や訓練を積んだ人に頼んでいた仕事を、AIが短時間でかなりの水準までこなすようになった。

だからといって、

「これからはAIがあるから、勉強しなくてもいい」

とは思わない。

むしろ逆だ。

AIが出した答えが間違っていることに気づくには、基礎知識が必要になる。

文章をきちんと読めなければ、AIへの問いも浅くなる。

数学的な感覚がなければ、もっともらしい数字をそのまま信じてしまう。

歴史や社会について何も知らなければ、AIの回答が妥当なのかを判断することも難しい。

これから必要になるのは、

知識を持っていることそのものより、知識を使って考えること

なのかもしれない。

AIによって勉強の価値がなくなるのではない。

変わるのは、

「何のために勉強するのか」

なのだと思う。

これまでは、知識を覚え、問題を解き、正解にたどり着くこと自体が大きな価値だった。

これからは、その基礎学力を使って、

AIに何を聞くのか。
AIの答えをどう疑うのか。
複数の答えから何を選ぶのか。
そして、その答えを使って何をするのか。

そこまで含めて「頭を使う」ということになるのではないだろうか。

だからこそ私は、AI時代になっても受験勉強で身につく読解力、論理的思考力、計算力、継続力の価値は残ると思っている。

ただし、

正解を出すことだけが得意な人で十分なのか。

そこには、少し疑問がある。

AIはこれから、「答えを出すこと」をますます得意にしていく。

だとすれば人間には、その前にある、

「そもそも何を問うのか」

という力が、これまで以上に求められるのかもしれない。

OECDの『Digital Education Outlook 2026』でも、生成AIを使えば課題の出来栄えが良くなることはあっても、それだけでは本当の学習につながらない場合があると指摘している。一方で、教育目的を明確にしてAIを使えば、批判的思考や創造性、協働を伸ばす可能性もあるという。

また、世界経済フォーラムの『Future of Jobs Report 2025』では、2030年までに仕事で求められるスキルの約39%が変化すると企業側が予測している。AI・ビッグデータなどの技術スキルだけでなく、創造的思考、レジリエンス、柔軟性、好奇心、生涯学習といった力も重要性が増すとされている。

こうしたデータを見ると、これから必要になるのは、

「AIに負けない人」ではなく、「AIを使いながら、考え続けられる人」

なのだと思う。

「好き」をとことん突き詰める力も、これからは大きな武器になる

学校で評価される力と、社会で価値を生む力は、必ずしも同じではない。

学校では、決められた時間割の中で授業を受け、課題をこなし、試験で結果を出す。

これは大切な力だ。

一方で、世の中には、誰かに課題を与えられなくても、自分の興味を勝手に掘り続ける人がいる。

ゲームでもいい。
動画でもいい。
音楽でもいい。
スポーツでもいい。
歴史でも、プログラミングでも、絵でもいい。

「なぜだろう」と思ったことを自分で調べる。

もっと上手くなりたいと思って試す。

失敗する。

また調べる。

同じことを何時間でも繰り返す。

気がつけば、人よりかなり詳しくなっている。

こうした力は、受験勉強とは少し違う。

誰かに目標を与えられて頑張るのではなく、

自分の中から目標が生まれてくる。

私は、この力をかなり大切にしたいと思う。

AIが便利になればなるほど、平均的な答えを出すこと自体は簡単になる。

そのとき差になるのは、

「自分はこれが面白い」
「もっと知りたい」
「こんなものを作ってみたい」

という、人間側の欲求なのかもしれない。

そして興味深いのは、学校という枠から少し離れたところで、こうした力が強く表れる人もいることだ。

学校にうまくなじめなかった。

決められた時間割では動きにくかった。

集団の中では力を発揮しにくかった。

それでも、自分の好きなことになると驚くほど集中できる。

ネットの中で仲間を見つける。

自分で作品を作る。

発信する。

コミュニティに参加する。

そこでは、学校の成績表には出てこない能力が見えることがある。

もちろん、

不登校になれば創造力が育つ、という話ではない。

不登校には本人の苦しさもあるし、学習機会や生活リズム、人間関係について親が心配するのも当然だ。

学校に行かないこと自体を美化するつもりはない。

ただ、

学校という一つの物差しの外に出たとき、初めて見える能力もある。

学校の外に出ると、少なくとも「みんなと同じ時間割」はなくなる。

それは不安定でもある。

何をするかを誰かが決めてくれるわけではない。

何時に始めるか。

何を学ぶか。

誰とつながるか。

どこまで続けるか。

ある程度、自分で決めなければならない。

もちろん、何もせず時間だけが過ぎてしまうこともある。

だから、不登校そのものを肯定したいわけではない。

ただ、そこから自分で何かを見つける人もいる。

好きなゲームを突き詰める。

動画を作る。

ネットで仲間を見つける。

知らない人とやり取りする。

自分の作品を公開する。

うまくいかなければ方法を変える。

こうした経験には、学校とは違う種類の学びがある。

それは、

「誰かが用意した世界で評価される力」ではなく、「自分で小さな世界を作っていく力」

なのだと思う。

今は、学校の外にも無数のコミュニティがある。

YouTube、ゲーム、SNS、オンラインの創作活動。

そこで年齢も住んでいる場所も違う人と出会い、自分の興味を通じて関係をつくることができる。

これは親世代の子ども時代には、ほとんど存在しなかった環境だ。

だから、学校にうまく適応できない子を見たとき、

「この子は社会に適応できない」

とすぐに結論づけるのも違うのかもしれない。

学校という一つの社会には合わなくても、別の場所では驚くほど自然に人とつながれる子もいる。

大切なのは、

学校に行っているかどうかだけではなく、その子がどこで人とつながり、どこで自分から動いているのかを見ること

なのだと思う。

AI時代には、決められた組織の中でうまく働く力だけでなく、

自分で居場所を探し、自分で仲間を見つけ、自分で何かを始める力

も、これまで以上に価値を持つのではないだろうか。

それは覚えておきたい。

いい学校の本当の価値は「誰と学ぶか」にある

いい学校へ行く価値というと、授業の質や進学実績、大学名を思い浮かべることが多い。

もちろん、それも大きい。

でも私は、もう一つ非常に大きな価値があると思っている。

「誰と学ぶか」だ。

難関校には、少なくとも受験という競争を通過してきた人が多く集まる。

何年も勉強を続けてきた人。
難しい問題を考えることを苦にしない人。
目標を決めたら、それに向けて努力できる人。

もちろん、全員がそうだという話ではない。

それでも、周囲にそういう人が多い環境に身を置くことには、大きな意味があると思う。

人は、自分が思っている以上に周囲の「当たり前」に影響される。

ここで大切なのは、単に「優秀な友達から刺激を受ける」ということだけではないと思う。

自分の中の「普通」の水準そのものが変わる。

周囲に、毎日勉強する人が多ければ、勉強することが特別ではなくなる。

難しい本を読む人が多ければ、それも普通になる。

大学受験だけでなく、研究、留学、起業、芸術、スポーツなど、それぞれの分野で本気になっている人がいれば、

「そこまでやっていいんだ」

という感覚を持てる。

これはかなり大きい。

子どもは、親が言ったことだけで育つわけではない。

友人、先生、先輩、その学校に流れている空気からも、自分にとっての「当たり前」をつくっていく。

だから私は、いい学校の価値の一つは、

高い基準を持つ人たちがいる環境に身を置けること

だと思っている。

そしてもう一つ重要なのは、そこで出会うのが「自分より勉強ができる人」だけではないことだ。

自分より努力できる人。

自分より深く考える人。

自分より好きなものを持っている人。

自分とはまったく違う価値観を持つ人。

そういう相手に出会うと、自分の世界の狭さにも気づかされる。

「自分はそこそこできる」と思っていた子が、自分よりはるかにすごい人に出会う。

その経験は、ときに自信を失わせるかもしれない。

でも同時に、

自分の限界を少し外側に広げてくれる。

それも、いい教育環境が与えてくれるものの一つではないだろうか。

だから、いい学校を目指すことには、偏差値では測れない価値がある。

友人が当たり前のように本を読む。

分からないことがあれば調べる。

何か一つ、ものすごく詳しい分野を持っている。

将来について真剣に考えている。

そういう人たちと毎日過ごしていると、自分の基準そのものが少しずつ上がっていく。

親から何度も、

「勉強しなさい」

と言われるより、

隣にいる友達が普通に努力している方が、子どもに与える影響は大きいこともある。

そして、いい学校に行くと、必ずしも「勉強だけができる人」に出会うわけではない。

数学だけ突出している人。

文章を書くのが異常にうまい人。

スポーツに打ち込んでいる人。

音楽や芸術に詳しい人。

社会問題について大人顔負けに考えている人。

自分とはまったく違う才能を持つ人と出会う。

そういう出会いによって、

「世の中には、こんなにすごい人がいるのか」

と知ることも、一つの教育なのだと思う。

さらに、学校や大学で築いた友人関係は、その後の人生にもつながっていく。

仕事を始める。

研究する。

起業する。

海外へ行く。

別の分野に挑戦する。

そのとき、学生時代の友人や先輩、先生とのつながりが、新しい世界への入口になることもある。

だから私は、高学歴の価値を単なる「就職に有利」という話だけで考えたくない。

努力する人、考える人、何かに秀でた人が多くいる環境に、自分を置けること。

それ自体が、大きな資産になり得る。

だからこそ、受験していい学校を目指すことには、今後も十分な価値があると思っている。

ただ、ここにも一つ注意したいことがある。

環境が素晴らしければ、それだけで人が育つわけではない。

周囲が優秀であっても、自分で何かを選び、自分で動かなければ、結局は「与えられたレールを上手に走る人」で終わる可能性もある。

いい環境は、人を伸ばしてくれる。

でも、

その環境を使って何をするかは、最後は本人次第だ。

だから私は、

「いい学校に入ること」をゴールにしてはいけない

と思う。

本当に大切なのは、その場所で何に出会い、何を考え、何に夢中になり、どんな人間になっていくかだ。

中学受験には「機会費用」がある

中学受験には大きな価値がある。

だからこそ、私はもう一つの側面も考えておきたい。

それが、「機会費用」だ。

経済学では、何かを選ぶことで失う「別の選択肢の価値」を機会費用という。

子どもの時間にも、同じことが言えると思う。

受験勉強に時間を使えば、学力が上がる。

難しい文章を読む力がつく。

計算力がつく。

勉強する習慣ができる。

目標に向かって努力する経験も得られる。

これは大きな財産だ。

一方で、子どもの一日は24時間しかない。

塾へ行く。
宿題をする。
模試を受ける。
復習をする。

そこに多くの時間を使えば、その時間にはできなかったことも当然ある。

スポーツをする。

楽器を弾く。

本を好きなだけ読む。

ゲームを極める。

プログラミングをする。

友達と何時間も話す。

家族で旅行する。

何もせずぼんやりする。

そして、

自分は何が好きなのだろう、と試行錯誤する。

どちらが価値の高い時間なのかは、一概には決められない。

受験勉強に数年間打ち込んだことで、その後の人生が大きく広がる子もいる。

逆に、その時間を一つのスポーツや音楽、ものづくりに使ったことで、将来につながるものを見つける子もいるだろう。

だから問題は、

中学受験をするか、しないか

という単純な二択ではない。

私が考えたいのは、

子どもの限られた時間を、何に、どれくらい配分するのか

ということだ。

そして、ここには少し皮肉なところもある。

親が中学受験を考える大きな理由の一つは、子どもの将来の選択肢を増やすためだと思う。

いい教育を受けさせたい。

将来、できるだけ多くの道から選べるようにしてあげたい。

その気持ちはよく分かる。

私自身も、そう思う。

ただ、将来の選択肢を増やすために、子ども時代のほとんどを大人が決めた予定で埋めてしまったらどうだろう。

「選択肢を増やすための教育」が、「自分で選ぶ経験」を減らしてしまう。

そんなことも起こり得る。

もちろん、子どもだけに任せておけば、自分にとって最善の選択をするとは限らない。

親がある程度方向を示すことも必要だ。

勉強の大切さを教えることも必要だと思う。

だからこそ、難しい。

受験に全力で取り組む時期があっていい。

その経験から得られるものも大きい。

ただ同時に、

「この子には、何にも追われずに自分の好きなものを探す時間が残っているだろうか」

という視点も、親は持っていた方がいいのではないか。

受験に費やす時間そのものが問題なのではない。

その時間と引き換えに何を得て、何を手放しているのか。

そこまで考えて初めて、受験という選択を本当の意味で評価できるのだと思う。

AI時代に強いのは「受験エリート」か「好きに没頭できる人」か

ここまで考えてくると、一つの問いにたどり着く。

AI時代に強いのは、

受験という競争で結果を出せる人なのか。

それとも、

自分の好きなことに没頭し、誰にも言われなくても動ける人なのか。

私は、どちらか一方ではないと思う。

AIが答えを出すことをどんどん助けてくれるなら、人間にとって重要になるのは、

「何を聞くのか」

「何を作るのか」

「そもそも自分は何をしたいのか」

という部分なのだと思う。

だから理想は、受験と没頭のどちらかを選ぶことではない。

必要なことには努力できる。
でも、誰にも言われなくても夢中になれるものがある。

正解のある問題を解ける。
でも、正解のないところから問いを作ることもできる。

私は、これからの時代にはこの組み合わせが強いと思っている。

少し乱暴に言えば、

「受験エリート的な強さ」と「オタク的な没頭力」を両方持つ人。

努力できる。

考えられる。

好きなものがある。

人とつながれる。

必要ならAIも使う。

そしてAIの答えにも、「本当にそうだろうか」と問い返せる。

AI時代の教育で目指したいのは、偏差値の高い子でも、好きなことだけをする子でもない。

学ぶ力と、夢中になる力を両方持った人

なのではないかと思う。

親が見るべきなのは「偏差値」だけではなく、その子の強みの組み合わせ

偏差値や順位は分かりやすい。

だから親としても、ついそこに目が向く。

でも、人の強さは一つの数字では測れない。

深く考えるのが得意な子もいる。
人と関係をつくるのが得意な子もいる。
好きなことには驚くほど集中できる子もいる。
失敗してもすぐ立ち直れる子もいる。

社会に出ても、「優秀な人」は一種類ではない。

論理的に考える人。人を巻き込む人。地道に続けられる人。誰も気づかなかったことを見つける人。

だから親としては、

「この子は何が苦手か」だけではなく、「何をしているときに、この子らしい強さが出るのか」

を見ていたい。

偏差値は大切な指標の一つだ。

でも、それがその子の価値のすべてではない。

親自身が、自分の「成功モデル」を疑えるか

子どもの進路を考えているつもりでも、実は親自身の価値観が強く反映されていることがある。

いい学校へ行く。

いい大学へ行く。

安定した会社に入る。

高い収入を得る。

これは、私たちの世代にとって分かりやすい成功モデルだったし、今でも十分に価値があると思う。

ただ、その道が、子どもたちがこれから生きる時代にも唯一の正解なのかは分からない。

AIが知的労働の一部を代替し、働き方も職業の形も変わっていく。

個人で発信する人。

複数の仕事を持つ人。

AIを使って一人で大きな成果を出す人。

今までなら特別だった生き方が、もっと普通になるかもしれない。

だから親に必要なのは、

自分が知っている成功の形を、そのまま子どもの正解にしないこと

なのだと思う。

親には理解できない道を選ぶ。

一見、遠回りに見える。

それでも、

「自分には分からない。でも、この子にとって意味があるかもしれない」

と思える余白を持てるか。

そこが、これからの子育てではかなり大切になる気がしている。

AI時代に、親が子どもに渡したいもの

では、AIが当たり前になる時代に、親は子どもに何を渡せばいいのだろう。

私は、何か一つの能力ではないと思っている。

高い学力。

好きなことを掘り下げる力。

人を思いやり、信頼関係をつくる力。

自分で決める力。

失敗しても、もう一度やり直す力。

そして、AIを便利な道具として使いながら、鵜呑みにしない力。

大切なのは、どれか一つだけを伸ばすことではなく、その子なりの強みを組み合わせていくことなのだと思う。

親としてできるのは、正解を全部教えることではない。

必要な土台は与える。

でも、本人が自分で考え、選び、失敗できる余白も残す。

AIがどれだけ賢くなっても、

「自分はどうしたいのか」

までAIに決めてもらう必要はない。

子どもが自分なりの答えを探せるように支えること。

それが、これからの親の役割なのかもしれない。

「いい学校」に入ることより、その先でどう生きるか

受験は、結果が分かりやすい。

偏差値が出る。
順位が出る。
合格か不合格かも出る。

だから親としては、どうしてもそこに目が向く。

でも、子育ての本当の結果は、そんなに早く出るものではないのだと思う。

30歳になったとき。

40歳になったとき。

仕事が思うようにいかなくなったとき。

人間関係で悩んだとき。

自分が思い描いていた人生から外れたとき。

そのときに、自分で考えられるか。

人に助けを求められるか。

もう一度学び直せるか。

そして、また自分の足で歩き始められるか。

そこまで見なければ、子育てが成功だったかどうかなど、本当は分からない。

学校という枠の中では力を発揮しにくくても、自分の好きなことなら驚くほど深く掘れる人がいる。

誰にも言われなくても、何かを始める人がいる。

自分で仲間を見つけ、自分の居場所をつくる人もいる。

そうした力もまた、AI時代には大きな武器になるはずだ。

もしかすると、これから本当に強いのは、

努力できる人でありながら、夢中になれるものを持っている人。

正解を出せる人でありながら、自分で問いを作れる人。

高い学力を持ちながら、学歴だけに自分の価値を預けない人。

なのかもしれない。

AIがどれほど賢くなっても、

自分は何を面白いと思うのか。

何をやってみたいのか。

誰と生きたいのか。

何を大切にしたいのか。

どんな人生を送りたいのか。

最後にそれを決めるのは、自分だ。

これは子どもだけの話ではない。大人になってからでも、新しいことを学び、新しい楽しみを見つけ、自分の人生を少しずつ作り直すことはできる。

私自身、年齢を重ねてからそのことを強く感じるようになった。
→ 50代になって分かった。人生は思っていたよりまだ長い

だから、子どもを「いい学校」に入れることがゴールではない。

その先で、

自分の人生を、自分なりに面白くしていける人になること。

私は今、そちらの方がずっと大切なのではないかと思っている。

受験は、そのための素晴らしい道の一つだ。

でも、唯一の道ではない。

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